小島三郎先生について
略歴
1888年8月21日 | 岐阜県羽島郡川島村(現各務原市)に誕生 |
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1912年7月 | 第七高等学校造士館第三部卒業 |
1916年9月 | 東京帝国大学医科大学卒業 |
1917年4月 | 伝染病研究所勤務 |
1919年 | 願いにより本官を免ぜられ、岐阜県羽島郡中屋村において家業(医業)を嗣ぐ |
1920年9月 | 再び伝染病研究所に勤務 |
1924年10月 | 医学博士の学位を受く |
1926年10月 | 1929年3月まで欧米に留学 |
1935年9月 | 東京帝国大学教授に任ぜられる |
1947年5月 | 国立予防衛生研究所設立とともにその副所長として赴任 |
1955年3月 | 国立予防衛生研究所長に就任 |
1958年5月 | 勇退 |
1958年11月 | 保健文化賞受賞 この間、厚生省伝染病予防調査会(当時まだ組織法はできていなかった)、薬事審議会、食品衛生調査会等、厚生行政と直結する数多くの審議会、委員会の委員として努力するところがあった。なお、逝去の当日まで抗菌性物質学術協議会理事長を努めた。 |
1962年9月9日 | 逝去(74歳)、正三位 |
略伝
先生は1888年8月21日、岐阜県羽島郡中屋村大字下中屋592の1の巖田家に生まれた。長じて東京の一ッ橋高等商業学校に入学したが、親戚である小島家(医師)の家業を継ぐため、同家の養子になるとともに医業を志ざし、第七高等学校造士館第三部に入る。続いて東京帝国大学医科大学を卒業したのは1916年9月である。卒業後、直ちに東京帝国大学伝染病研究所において臨床医学を研究し、1919年までそれを続けた。同年3月、官を退き、帰国して小島医院において診療業務に従事した。
診療業務に従事中は種々の診療逸話を残している。どのくらい診療技術が立派であったか伝える資料はないが、その人徳、奇行の故にその評判はあまり悪くはなかったようである。しかし、やはりその本性、研究の方に向っていたのであろうか、ふたたび上京して伝染病研究所に入り、今度は細菌免疫学の研究に従事することになった。1920年9月である。
小島先生が細菌学の研究を始めた頃、細菌の発育環境における水素イオン濃度の問題が学会の興味の頂点の一つになっていた。先生は早速その問題と取り組み、当時としては斬新な水素イオン濃度の電気的測定(水素電極)に取り組み、コレラ菌の発育と水素イオン濃度との関係に関する研究で1924年10月、医学博士の学位を受けた。
それから後も先生の細菌免疫学における興味は、その化学的研究にあったようである。1926年、文部省から在外研究員として約2年半欧米に留学したが、その間主としてスウェーデンのストックホルムで血清の分画の研究をした。帰朝後もその研究が続けられ、血清の化学的研究、水素イオン濃度、酸化還元電位等が興味の対象であった。
小島先生は、一面ではそのように、今日言うところの分子生物学的研究領域に興味を示したが、一方では衛生行政に連なる研究問題にも興味があった。その端的な表われは、1936年5月浜松で大福餅中毒があった時の先生の反応である。この中毒事件は周知の通り、S.enteritidisによるものである。この事件の研究と調査を契機として、小島先生の興味はサルモネラ全体の問題に入り、サルモネラの細菌学的研究、分類、疫学に広がり、遂にわが国にサルモネラセンターを作って、コペンハーゲンの国際サルモネラセンターの支部として働くようになった。
インフルエンザの研究にもある程度の執心はあったようである。その研究は既に戦前から始まっている。1938年頃、伝染病研究所の屋上にフェレットを飼育し、これと卵と組織培養を使った研究が進行していた。終戦後間もなく、アンドリュース博士の提案でWHOがインフルエンザセンター網を通して活動を始めた頃、いち早くその日本インフルエンザセンターを運営した。
小島先生の研究の中で特筆せねばならないのは、赤痢に関するものである。その疫学調査とわらじ疫学理論による赤痢学もさることながら、赤痢菌群の分類体系にはかなりな力と時間をさいた。イギリスのアンドリュース−インマンの分類、日本の二木分類、志賀分類、三田分類等を文献的に考証し、かつ細菌学的検討を加えて整備統合し、日本学術振興会赤痢菌分類法を確立したのは一つの見識である。ただし、学問の進歩はアメリカのワイルの分類、ユーイングの分類、イギリスのボイドの分類から発展して国際赤痢菌分類法に至ったのは、時代の趨勢のしからしむところである。ちなみに日本学術振興会分類法式が発表されたのは1944年である。
日本の伝染病予防防疫のために消毒薬に関する行政指導を行ない、その方法術式を確立したのも小島先生の業績に数えてよい。伝染病予防法の中の消毒薬に関する施行方法を確立し、さらに消毒薬の品質管理のために尽くし、石炭酸係数の測定、その他に関して日本公衆衛生協会雑誌法を提案し、爾来、この方法はわが国の消毒薬品質管理の基本となっている。
以上の通り、小島先生はまず細菌学の分子生物学的研究から出発し、ついにその公衆衛生学的応用に至って一つの体系を形成した。特にその経歴が示すごとく、伝染病研究所における細菌学の研究に並行して日本大学において衛生学の講座を持ち、研究と指導に尽力したのもその表われである。
また、赤痢をわが国の衛生行政上の立場から国民病の一つと見なした先生はこれの防疫に心を砕き、その研究のためにSS培地その他、検索法の改良に力を注いだ。これに関連して公衆衛生における衛生検査の重要性を説き、つとに衛生検査技師およびその学会の育成に尽力があった。
一方、先生は学問とは別にスポーツの世界でも活躍した。日本スキー連盟の会長として長らく働いただけでなく、自ら乗馬の技術に優れ、あるいは山岳活動にもその功績を残している。
伝染病研究所から国立予防衛生研究所の副所長として赴任したのが1947年5月で、1955年所長に栄進し、1958年勇退した。その間、公衆衛生に関する学術および公衆衛生行政に関する種々の分野で活躍した。伝染病予防防疫、食品衛生、生物学的製剤行政、抗生物質行政、その他数多くの審議会、協議会、委員会等に関与し、わが国の厚生行政の上に残した功績は大きい。
これらの業績が認められたものであろう。1958年11月、保健文化賞を受賞した。
小島先生は1962年9月新潟県高田市に講演旅行し、帰宅後やや不快を憶えた。病臥し、その翌日、東京都大田区田園調布の自宅にて永眠した。9月9日午前6時である。
(福見秀雄 謹記)